古くから日本の食文化を支える塩。
その代表的な産地のひとつとして知られるのが
兵庫県赤穂市です。穏やかな瀬戸内の海と
晴れの多い気候を利用して
弥生時代から塩づくりが続いています。
赤穂がかつて塩の国と言われたゆえんを
探しに行きましょう。
赤穂での塩づくりの歴史は
弥生時代から
縄文時代から行われてきた日本での塩づくり。当時の人は、海から海藻を集め、天日干しすることで浮き上がってきた塩を濃縮させ、土器で煮詰めるというつくり方をしていました。しかし、採れる塩の量は海水1リットルから30g程度。塩づくりは気の遠くなるような仕事でした。
日本有数の塩の産地、赤穂では弥生時代末期に使われた製塩土器が内陸の塩屋地区から出土。この頃から塩をつくっていたことがわかります。さらに赤穂北部でやはり製塩土器が出土したことから、塩屋でつくった塩をそこまで運んで供給していたようです。いまとは時代が大きく異なりますが、人が塩をつくり、人と交流し、食生活に塩を活かしていたことがわかります。
かつて海岸線沿いには
見渡す限りの塩田が
中世になると、赤穂の塩づくりは、土器で煮詰める方法から砂に海水をまいて天日で水分を蒸発させる方法へと進化します。海沿いには塩田ができ、江戸時代になると赤穂藩主、浅野長直が塩田の大規模化に乗り出し、浅野家3代で約100haにしました。藩主が浅野家から永井家、森家へと変わってからも拡大は続き、江戸時代末期には400 haに。そして、見渡す限りの塩田から莫大な富が生まれました。
塩田は、千種川を挟んだ東側と西側に広がり、東浜塩田ではにがりを差し入れた差塩(さしじお)をつくり、江戸や東北へ。一方、西浜塩田ではにがりの少ない上品な味の真塩(ましお)をつくり、京都や大阪などに出荷していました。赤穂の塩が東西の食の好みを捉え、それぞれの食文化を支えてきたと言っても過言ではないでしょう。生産量が多いだけでなく味と品質が良いことで知名度を上げ、明治時代には「塩は当国赤穂にて製するを国内第一等の品とす」「赤穂塩日本第一也」といった高い評価を受けるまでになりました。
昔ながらの製法で、
昔ながらの塩をつくる
高度経済成長期になると、国の政策で塩づくりは工場での大量生産方式に切り替わり、赤穂はもちろん日本国中から塩田が消滅しました。製塩会社は残りましたが、かつて塩田があった土地は家や工場、公園になり景色が一変。そうなると、寂しい気持ちが湧いてきます。昔ながらの塩をこれからもつくりたい、味わいたいと考えた人たちが署名活動を行い、自然塩を復活させることに。また、もともと塩田だった公園の一角には「赤穂市立海洋科学館・塩の国」が誕生。ここでは、かつて赤穂で技術を進化させ、日本各地へと広まった入浜式の塩田を再現させました。
塩づくり体験・塩田案内
「赤穂市立海洋科学館・塩の国」では、海や塩に関して学ぶことができ、塩づくり、釜焚き実演見学、復元された塩田の見学が可能。塩田は、日本遺産(文化庁)登録の「日本第一の塩を産したまち播州赤穂」の象徴となっています。
赤穂の塩も貢献している
播州手延そうめん
赤穂の塩は、播州地方で約600年前に始まった播州手延そうめん「揖保乃糸」の材料としても使われています。そうめんづくり最初の工程では、小麦粉と塩水が必須。塩のおかげで生地が引き締まり、独特のコシと歯切れの良さが生まれるのです。そうやって生地ができたら撚り(より)をかけながら延ばし、熟成させ、また延ばすという工程を繰り返し、乾燥させてから、折らないように注意してひと束ごと箱に並べていきます。
まるで芸術とも言える極細麺は、良質な赤穂の塩と職人の丁寧な仕事あってこそ。滑らかに口に入り、喉へと通るあの感触も贅沢。歴史や手間ひまを思い浮かべながら味わうとおいしさもひとしおではないでしょうか。
「揖保乃糸」を深く知って味わう
「揖保乃糸」の歴史や伝統の技を学べる施設「揖保乃糸 資料館 そうめんの里」。約50㎝の麺紐を約1.3mまで箸で引き延ばしていく実演の見学、加工場の見学などができます。そうめんはもちろん手延べ製法によるパスタや中華麺などをお土産に買うことも。